
明治26年、現会長の祖父高木喜三郎により創業された。高木家は、源を日田に発する耳納山と、筑後川に挟まれ東西に細長い筑後平野の東部、すなわち、福岡県浮羽郡浮羽町(旧椿子村)の県道に面して、日田市へ四里、久留米市へ七里の位置にあった。
家業は代々紺屋で、広い家の中には絶えず藍の匂いが鼻をつき、その匂いが家の人達の体臭のようになっていた。喜三郎は、両親から家業を継ぐよう勧められたが、頭から藍に染まり天候に気を配りながら仕事を進めなければならぬいかにもじめじめした感じの紺屋をどうしても継ぐ気になれなかった。しかし、喜三郎は、やりたい仕事があったわけではなかった。 喜三郎は19歳になると、浮羽郡浮羽町(旧大石村)古川の練山次三郎の姪、マツヨと結婚した。妻を娶った喜三郎は急に高木家の一切の責任がずっしりと肩にのしかかってきたような感じになった。
そんな或る日、近所の林田彦助の勧めで材木の仲買いを思いたち、日田市から杉材を仕入れ、久留米市の酒屋に売って大儲けをした。この活気がありいかにも落ちついた雰囲気の漂う酒屋に影響を受け、酒屋を始めようと決心するのであった。 当時の日本は、旧来の文化と、異国の文化の交流が活発に行われるようになり、中央から遠く離れた九州久留米の町にも、洋服を着た人が歩くのを見受けられるようになっていた。
喜三郎は、酒屋を創業するに当たって、自分の生活態度を改めることから始めた。そして、自宅の紺屋を少しづつ酒屋に適するように改築を行い、その一方、自分自身は酒造りの資料を各方面から収集し、酒造りの勉強を独学で進めた。建物、道具、材料も揃い、明治26年12月1日に待望の火入れが行われ、酒造りの記念すべき日となった。
初代杜氏は鳥越五平で、15歳から当時福岡県で最も酒造の盛んであった城島の酒屋に奉公し、人に負けない技術を身につけていたが、地域性(出身地)の強い蔵男達の中では、他国者(浮羽町出身)といびられ続け、25年間努力してもまだ蔵一にもなれず三役どころで使われていた。そこを喜三郎に抜擢され杜氏としての望外の地位を与えられた。五平は城島方面で自分と同じ扱いを受けていた蔵男達を磯乃澤へ呼び、当時は若い蔵男達の血涙をしぼることが蔵男教育であると考えられていた古いしきたりに反対し、しっかりチームワークをつくり酒造りに努めたのである。
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