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明治26年12月1日創業。当時の造石数は、250石から300石程度であった。最初は、地元消費に重点が置かれ、久留米、三井、浮羽、日田等が重要な仕向地になっていた。今日のように鉄道、トラック輸送はなく、専ら馬車、川舟輸送であった。得意先回りも自転車もない時代のことであったので、そう遠方まで出向くことは不可能であった。
明治40年、一躍1,257石に増加した。不便な当時としては予想外の上昇である。これは久留米、日田の市場の拡大と、新たに大都市福岡、炭坑が栄えはじめた筑豊地域にも進出したためである。
大正元年、1,815石に増加。交通機関の発達に伴い需要が高まる。
大正5年、隣接して第二工場を建設し、一躍3,259石となる。この頃の得意先は北九州、佐賀、長崎方面にまで広がって行った。
昭和元年、3,819石となり、増石につれ工場内も漸次合理化され、新しい機械が着々と設置されていった。
昭和13年の酒税法改正により基本石数が制定され、昭和18年の企業整備で高木酒造は第一工場の1,740だけ操業して、第二工場の1,365石は転業又は廃止となった。酒造統制はそのまま続いて、昭和23年頃には578石余りとなった。
昭和21年、創業者の高木喜三郎73歳で死去。父に早逝されていた現会長高木栄三郎が19歳で家業を継ぐ。
昭和23年資本金200万円で高木酒造株式会社を設立。しかし、同年8月車庫より出火し、倉庫561坪、酒樽309本を焼失してしまった。
昭和24年6月に酒類配給公団が廃止になり、当社は工場新築許可を受け、同年10月30日木造二階建瓦葺185平方米の酒蔵を竣工した。
昭和27年第一回全国清酒鑑評会全国一位入賞(当時は順位付けあり)。当時、高木栄三郎は、得意先の拡張に努める一方、杜氏の石井康吉と酒造研究にも力を入れ、酵素液仕込みの製造方法を開発し、この製造方法で製造した新酒が全国一位の栄冠を獲得したことが非常に励みになった。
昭和28年社名を磯乃澤酒造株式会社に変更。
昭和28年第二回全国清酒鑑評会で連続して全国一位の金的を射止めた。これは九州酒造界始まって以来の栄誉であった。
昭和45年、社名を株式会社いそのさわに変更し本社を福岡市へ移転。
平成9年駿、優吟醸蔵完成。現在も、自社で研究開発した酵素液仕込みの方法による酒造りが行われており、灘、伏見に負けない上質の清酒を製造している。
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